日々のノート

植物料理研究家YOSHIVEGGIE(ヨシベジ)のブログへようこそ。自然のリズムと同期する生き方。セルフラブから始まる地球平和。ノート術。生きづらさをギフトに変える心理学。食べもの、暮らし、マインドフルネス。

ニューアース・キッチン 3  ベジタリアンかノンベジタリアンか

ニューアース・キッチン

~台所で母なる地球の声を聴く~ 

 

3  ベジタリアンかノンベジタリアンか 

 

肉や魚を食べるか、食べないかという選択肢。

 

健康のため、というよりむしろ、あなたが平和・環境・スピリチュアルといったホリスティックな在り方にコンシャスな人であれば、とても気になるところではないでしょうか。雑食ライフな私自身、今でも考え続けるテーマです。

心の問いかけに一度立ち止まって、それはなぜだろうと考えてみます。

それは、だれしも本音のところではわざわざ動物の命を奪うことはしたくないからではないでしょうか。自分で殺めないにしても殺傷に加担したくない。同類生物にシンパシーを感じる人間として、動物を食べることが心理的に抵抗が生まれます。

その意味でベジタリアンは理想的な食事なのです。誰かを苦しめているという後ろめたい気持ちが少なくて済みます。

食養生の教えマクロビオティックでは、精製していない丸ごとの穀物と野菜を摂る穀物菜食を基本としていて、動物性の食品は時と場合によっていただくとしています。禁じてはいないものの「自分よりも大きい動物は食べない」という考え方があります。自分で手にかけられるくらいの、分相応の生きもののいのちを丸ごといただくということですが、なるほどと思います。


とはいえ性(さが)とは一筋縄ではいかないものなのですね。

私自身のスタンスを知る、こんな体験がありました。


修業先の、とあるレストランにいたときのこと。そこでは有機野菜、天然魚、放牧場育ちの動物肉を直送仕入れしていました。テロワール(風土)を意識した、調理にも品質にも妥協をしない店でした。


シェフが、お肉を扱うからには屠畜を経験する必要があると思い至ったのは自然な成り行きでした。そこで、私が知己にしていた篤農家、金子さんのもとを、店の仲間とともに訪ねました。

埼玉小川町で長年にわたり有機農業と畜産を営む金子さんは、世界中から研修生が訪れる、日本の有機農業の先駆者です。大学院で、専攻そっちのけで日本の有機農業運動を研究していたことのある私にとっては、私がもっとも憧れる人の一人でした。彼のもとから、多くの有機農業者が育っていきました。

農場を訪ねると、野菜が元気に育ち、牛も鶏もいます。日本で昔から営まれてきた「有畜複合農業」です。

金子さんは家畜の糞尿や野菜くずをタンクに集めてメタン発酵させてガス利用する、徹底した循環利用のモデルを見せてくれました。

そして私たちの望みに応え、鴨を用意してくれることになり、鴨のいるケージに向かいました。


ケージの中で遊び回っていた大勢の鴨の中から、金子さんはまず2羽を見定めました。逃げ回る鴨と追いかける彼の様子を見守っていた私は、こんなことをお願いしてしまったことを撤回したくなる気持ちに駆られました。胸が締めつけられ、私はやっぱりこの先ベジタリアンを貫きたい、と思いました。


鴨は捕まり、精一杯の力でバタつきますが、金子さんも全身で覆い被さるようにして、押さえつけます。そして足を縄で縛りつけ、木に吊るしました。
田舎の暮らしや旅先で、屠畜や解体を間近で見てきたことはあります。ですが今回は自らお願いして、自分たちの体験のために積極的にこの小さく元気な命を奪おうとしているのです。その事実に苦しくて目眩がしてくるのをなんとか我慢しながら金子さんを手伝いました。

 

吊るされた鴨は、全身の力で抵抗した後、一瞬観念したかのようにおとなしくなりました。

その同じ瞬間、私の中から声が聞こえたのです。


「おいしそう」


え?と耳を疑いました。

 

まだ死んでもいない、お肉にもなっていない、鴨を相手にして「おいしそう」という発想が浮かぶ自分に唖然としました。
そしてその同じ瞬間に、金子さんは鴨の首に手際よくナイフを入れていました。
鴨が観念した一瞬の隙、「おいしそう」の声は聞こえ、鴨の命が絶たれました。

同じ瞬間に、鴨と、金子さんと、私がシンクロナイズしていました。


2羽目もまた違う方法で、一瞬のうちに絞められました。

一次処理をした後、店に持ち帰り、羽毛を抜く作業です。匂いと、抜いても抜いても終わらない大量の羽に、1羽の鴨の圧倒的な存在感をかみしめながら。

「かわいそう」から「おいしそう」に変わった瞬間、それは私のなかで鴨という生きものがお肉という食べものに変身した瞬間でした。
逃げ回り捕らわれる鴨を見て、今ここで一生ベジタリアンを誓いたい!と思ったものの、次の瞬間に「おいしそう」の感覚も持ち合わせている私は、根っからのベジタリアンではないんだ、ということを思い知りました。清らかなるベジな私、という理想は自らの声によって打ち砕かれました。


ああ、私は雑食性なんだぁ!!

もはや聞こえてしまった本音。フタをするのには違和感があります。
そのことがあって以来、いただくなら思いっきり嬉しくありがたく、にわか狩猟民族の血が濃くなったかのように、積極的にいただいて、私の命の中に歓迎します。

 

ベジタリアンか非ベジタリアンのどちらなのか、という選択肢はともかく、この命を生きるために自然のめぐみをいただいている、という自覚だけは忘れないでいたいものです。

 

ベジ料理をおいしく作る、食べる、食べてもらう、作ってもらう。

結果的に野菜たっぷりの健康的な食卓が増えていく。


世界が平和でありますように。自然がずっと豊かで恵みをもたらしてくれますように、の祈りを込めながら、今日のごはんをいただきましょうね。

 

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