ニューアース・キッチン
~台所で母なる地球の声を聴く~
4 味覚は野で育つ
私の食の視点を形作った原風景の話をします。
私は長崎の田舎で生まれ育ちました。
目の前には田んぼや畑に空き地がありました。その先には海に続く大きな川、両岸は広々とした干潟で、葦が生い茂り、鳥や小動物の住処になっていました。カニやドジョウやハゼと戯れました。家の前の用水路で、天然記念物のカブトガニが泳いでいるのを見かけたこともあります。「野」で私の五感は鍛えられ、野性的に育っていきました。
さらに私の父が山の土地を購入し開墾を始めました。
戦中戦後にひもじい思いをした体験から、またいつ来るともしれない食料危機に備えられるように、と父がよく話していたのを思い出します。今でこそ、先見の明に驚くばかりですが、ジャパンアズナンバーワンなどと言われていた時代にあっては、そんな話をする人は周りに誰もいませんでした。自身の感覚で開墾を始めたわけです。
子どもの私にはさっぱりわかりませんでしたが、飢えを知らない私には、食料危機なんて言われるとなんだかサバイバルゲームみたいで、むしろ刺激的でした。今になって、食糧危機という言葉に、現実味が増しているように感じます。本当のサバイバルゲームが間近かもしれません。
週末になると家族全員、山に連れ出されました。
重機でやぶを切り開いたところで、石ころを拾い、灌木や草の根を掘り出すのが、子ども時代の週末のアクティビティでした。ときには山菜採りにいそしみ、みんなでお弁当やバーベキューをした後は、手を草のアクで真っ黒にして下ごしらえを手伝いました。
家に帰って、その日の食卓に並んだワラビやタラの芽は、ほろ苦いけど、自分の手柄だと思うと、なんだか美味しいと思えるのでした。
地味だけど、私のイマジネーションのなかでは、その食卓は山のいのちの、色鮮やかなお祭りでした。
草萌えの頃になると、家の近くの土手に草を摘みに行ったものです。
ヨモギ餅にし、ヨメナとつくしの混ぜご飯をつくり、ニワトリ小屋に入って、雌鶏に気づかれないように、そっととってきた産みたてのあったかい卵をかけて食べるのは、最高のごちそうでした。
野菜は、買ってくるものというよりは、種をまいて、畑からとってくるもの。また、近所の人や親戚たちと分け合うものでした。
調理に使う水は、山に湧き水を汲みに。
海には、貝を採りに行きました。もっぱら、泳ぎに適した砂浜ではなく、岩場に連れて行かれました。ヒトデにナマコにイソギンチャク、海辺にはヘンテコで楽しい生きものがいっぱい。ウニはその場で割って食べました。岩に張り付いた青さやヒジキ、打ち上げられたワカメも収穫します。
佐賀の親戚の家にもよく遊びにいきました。
そこにはみかん山があり、やぶや崖も多く、冒険の材料には事欠きません。木いちごを摘んで食べながら、とげで引っかき傷をつくり、めいっぱい遊び回ったものです。祖父は猟師でもあったので、狸、ウサギ、野鳩が食卓に上ることもありました。
集落のお祭りでは、農業用水池の水を抜いて大きくぷっくりと育った鯉を、大勢の男衆で囲い込んで捕獲し、きれいな水槽に放って泥抜きをして、各家庭で鯉こくやあらいにしてお祝いをしました。
身の周りのごく身近な自然のなかに食べものがある、また食べもののなかに自然があり、四季がある、ということを、体験的に教わりました。それが、のちになってパーマカルチャーデザインを学び、エディブルガーデンやエディブルランドスケープの大切さとリンクしていくこととなりました。
一方で、四季折々に食べものを恵んでくれる親しみ深い自然、私の遊び場である懐の広い自然が減っていくことに、子ども心にも危機感が募っていきました。
あぜ道同然だった田舎道が砂利道になり、そのうち舗装され、それにつられて畑や田んぼが住宅やアパートに徐々に変わっていく様を見ると、息苦しいような切ないような気持ちになりました。ああ、一度コンクリートで固められたこの場所は、もうこれからずっと土を見せることはないんだ、と。その下にいて、地上に出られなくて戸惑うミミズやモグラや蝉の幼虫のことを想像し、絶望的な気持ちになりました。
あまりにドラスティックに自然環境が変わっていくことへの危機感の中、私の環境意識もその頃に芽生えました。
自然の小宇宙。そんな無限の可能性をもつ遊び場で、子どものひらかれた感性は呼応せずにはおれません。それは五感にも第六感にもたぶんその先にも訴える、情報の宝庫です。ガサツさも身についてしまったものの、田舎で子ども時代を過ごせたことはとても幸せなことだったと今でも思います。いまだって、お散歩中の原っぱでエディブルなもの(食べられるもの)を見つけてしまうサバイバル能力は衰えていません。
ジェームス・ラブロックが「ガイア」=地球生命体という概念を提唱し、電撃を受けたのも、この原点があったからです。
アロマセラピーという言葉もさほど知られていなかった90年代初頭、イギリスへアロマセラピー再興の第一人者ロバートティスランド氏の講座を受けに出かけたことも、フランス南西部に薬草療法家モーリスメッセゲ氏の農園を訪ねる旅をしたことも、パーマカルチャーを学びにオーストラリアに行くことになったのも、豆の食文化をこの身で体験したくてインドに出かけたのも、思い返せば子どもの頃の好奇心と、危機感の延長です。
ときには手の込んだ、アーティスティックなごちそうもいいのですが、私の料理に対する基本的なスタンスは、とってもシンプルです。
自然がそのときにくれるものをいただくこと。
その延長線上で料理をすること。
小さな頃の、小さな思い出。家族と手をつないでいた頃に、一緒に食べたもの。そのときの体験は、いつまでもキラキラとしています。
小さな頃の、愛情や冒険に満ちた食卓の原体験は、料理を作る人のベースに無意識のうちにも入り込んでいるのだと思います。
旅で出会う新しい味に魅せられて戻ってくるものの、私のなかにしみ込んだ、懐かしさの味覚を超える影響力は、いまだないような気がします。
現代の生活環境は自然からだいぶ遠ざかってしまいましたが、子どもたちには、折にふれ自然と交わって、自然から食べものがもたらされる「リアリティ」をできるだけたくさん体験してほしい、と切に願います。
秩父の拠点には仲間たちも家族で畑や古民家のアクティビティにやってきます。ここでのワイルドな体験はきっと子どもたちの記憶の片隅に刻まれていくように思います。