ヨシさんごとですが
「最近ますますきれいになったね」
と言われますです。
「いやいやいやー💦」なんて返さずに、しばし居心地の悪さを耐えます 笑。
ゆっくり息をして、褒め言葉をしっかり自分の中に吸い込んで、そして「ありがとう、うふっ💕」と、にっこり喜びます。
きれいを磨くこと。おしゃれをすること。
最近自分なりに意識しています。(忘れてること多いけど)
それは単純に、ルールを変えたから。
新しく決めたルールは、自分の中の女の子を喜ばせてあげることをする、ことです。
顔面神経麻痺で、顔面崩壊の危機に直面したおかげで、最後の抵抗が崩れ去りました。
世界はいつ崩壊してもおかしくないくらい、ビョーキだ。
それなら、自分でもっと、遊ぶ!
自分の顔と体を、もっと楽しむ!
母なる地球も、私のことも、もっと楽しむ!味わう!
子どものころのこんな記憶。
家の前で一人で遊んでいたときのこと。
一台の車が私の前ですっと止まりました。
乗っていたのは中年の夫婦。窓が開いて「この子なんてかわいいの」みたいなことを言ったのです。
長崎弁だったかもだけど、「こん子きれかねー(きれいだ)」か「かわいかねー(かわいい)」か、間違いなく私に向けた感嘆の声でした。
それだけ言うと、私を人さらいするわけでもなく、車は去って行きました。
ポカーン。
要は、その夫婦はわざわざ走らせていた車を止めて、私に「あなたはめちゃくちゃかわいい」という主旨の感嘆言葉を伝えて去った、という出来事。
「知らない人を信じちゃだめよ」という、昭和のナゾの格言が力をもっていたあの頃。
知らない人にいきなりかわいいなんて言われてしまったことで、私はその後ひどい罪悪感に苛まれました。
自分がなにかとても悪い人間で、悪いことをしてしまったような。
子どもの頃、私は自分が女の子であることはいけないことだ、と強く思っていて、男の子の言葉使いをしたり、一生懸命男の子のそぶりをしていたなあ。写真に写るときはもれなく変顔をしていました。
愛読書は子供向けのサバイバルやアウトドアのジュニア本。あと、自然観察の本。実際、大好きでした。
でも密かに、バレリーナの本を読んでうっとりしていたことも思い出します。
バレエを踊る人みたいにきれいな女の人になりたい、でもわたしなっちゃいけない。なれない。なぜなら、女の子はいけない存在だから。
本気で、そう信じていた小さい私。なんとも痛々しいですね。
家庭内でのインプットがインプットだっただけに、まんま信じて、自分を否定することで、しいては自分の女性性、女の子らしさを否定することで、存在の意義をかろうじて保とうと必死の策だったわけです。
長年かけて、長年培った自己存在否定の氷を溶かした今、あの出来事を、味わい返してみるのもいいものです。
めちゃくちゃかわいい、と言われて、それがたとえ知らない人だったとしても、本当は、本音は、めちゃくちゃ嬉しくて、有頂天になって、自己満足して、気分良くなりたかった女の子。
本当に車を止めて見たいくらいめちゃくちゃかわいかったであろう、当時の小さな女の子を、今の私が、あたたかく見つめてあげています。
女の子であることを存分に楽しみ、自分を慈しむことを、人生の脇に置かず、真ん中らへんに据える。
そして、そのことを照れないし、遠慮しない。
丁寧に美を磨いてきた先達の女性たちからしたら、笑っちゃうくらいにぼっさぼっさの野趣あふれる手入れの行き届いていない私なのですが、人生後半であってもいつでも、学び直して磨いていく、始めていく。それもまた素敵なことだなあ、と思います。
自分史上どんどんかわいくきれいになっていきます。
美であそびます。
満たされた気持ちを味わいます。
そして、私の存在そのものが自己肯定感低めで悩むだれかのインスピレーションになる。
本気でそう思っていますので先達の皆様、いろいろ教えてくださいませねー。
最後に。
トラウマや愛着障害など、内的に起きるチャレンジ体験は、とてつもない癒しと覚醒の鍵を秘めています。秘めたままにしておくのはもったいない、活用しよう、というのが私の確信です。そういう思いがあって機能不全な家庭環境での私の経験を話題にしています。
私の両親には、よりめちゃくちゃかわいく、五体満足に産んでくれて、愛情を受け、想像を絶する苦労苦難を超えて養育を受けた結果、今の私がいることに、感謝と、かけがえのない幸せを感じていることは言うまでもありません。
私は本当に恵まれています。
いのちをつなげてくれて、ありがとう。
この生命讃歌が大前提にあります。