ニューアース・キッチン
~台所で母なる地球の声を聴く~
9 旅先のストリート
旅先での食事、それは旅の最大の楽しみのひとつでもあり、料理の発想の引き出しを豊かにしてくれる素敵な「スーヴニール(お土産・思い出)」でもあります。
「食べる=生きる」の原点に触れていたくて、私のアジア旅の思い出のなかには、ストリートに限りなく近いシーンがいっぱいです。
インド、コルカタ。
夜も明けないうちから外はすでに一日が始まっている気配。私はざわめく通りに出て、道端に並べられたベンチに腰掛ける。直火であぶったトーストにバターを塗って、やかんから素焼きの茶碗に注がれるちょっと土臭い熱々のチャイとともに、朝ごはん。じんわりと、目が覚めてくる。日が昇り、だんだんと、空気が熱くなってくる。
お惣菜の屋台は、路上あちこちに出ているから、お腹が空くとふらりと立ち寄りたくなる。たらいやホーローのお盆に入った数々のおかず。「これとこれとこれ」。指差して、ごはんと一緒に食べると、かなりの満腹。市場で見かけ気になっていた野菜の使い方をここで知ることも多い。
川沿いにあるハンモックレストラン。屋根と骨組みだけの簡素な小屋にハンモックがだらりと下がり、その上に腰掛ける。夕暮れ時、友達とのんびりおしゃべりしながら、ハンモックをゆらしながら、ちゃぶ台に並んだローカル料理をつまむ。なまあたたかいメコンの風が、ひと口ごとに体のなかに浸透していくよう。
ラオス、風光明媚な渓流のほとりの道端でのこと。
タレに漬け込み炭であぶり焼きにした豚のリブ肉が感動する美味しさで、それだけ食べていたらよかったのに、川の水で洗ったであろう付け合わせの山盛りフレッシュハーブを一緒にむしゃむしゃした私だけが、お腹を壊して数日間寝込んだこともあったっけ。
ネパールの山岳の村。
歩き疲れてお腹が空いたところで目に入ったMOMOの看板に導かれて入った簡素な小屋のようなお店。ベジモモ(野菜の蒸し餃子)を頼むと、裏の畑で野菜を採り始めるから、私も付いて行って、収穫を手伝ったり、作る様を見学したり。オーダーして1時間近くかかってできたベジモモ、もう味は忘れてしまったけれど、ただお客で食べるよりもなぜか有難く感じて。
ストリート、屋台、市場、農村。
旅に出たら、私はそんな素朴な場所を訪ねるのが好きです。
山深い集落で、自給自足とわずかな現金収入で簡素な暮らしを営む人たち。食べているものも、シンプルです。
ときには、紛争などによって社会経済が乱れた地で、路上やスラムでたくましく生活する人たちとともに過ごすこともありました。
「食べる」と「生きる」の距離が近い暮らしです。
「食べる」が、一方で生きる目的から離れて、料理が、まさに「食い道楽」と言われるように道楽の対象になり、グルメや美食と言われ、はたまた芸術や教養や文化遺産になりもします。
旅に出ると料理家の立場、そして旅人という第3者の立場で、どちらの体験も「食べる」という共通項で、フラットに見ることができる。
そしてあらためて思います。
生きるために食べる、って愛おしい。
そして、食をアートとして高め深めつつ精神文化に引き継いでいくことも、やはり愛おしい。
今日も繰り広げられる、世界中の食べるシーンのために、世界は平和でなくてはならないし、地球は美しく豊かでなくてはならない。
私の料理の発想の下には、ごく自然なこととしてその願いがあります。
自給自足の小さなコミュニティが成り立っていた頃は、農業漁業、そして狩猟・採取と、食べものが近いところで見えていたし、食生活と自然環境との関係性もわかりやすいものでした。
地球を汚さない食をつくろう、大地と人の健康を害せず作られたもの・採られたものを使おう。そんなことをわざわざ考えていなくても、自然に配慮ができた時代がありました。
食が産業になりグローバル化してしまった現代では、そういった食の原点や関係性は見えづらくなってきます。
だから、イマジネーションを忘れずに。
根っこのところのベクトルはいつも、地球的にハーモニーのとれた料理、に設定しておこう。
そう思いながら私はキッチンに立ちます。